牧場こぼれ話・2009

2009年5月1日 Best Luck by 飯田正剛  第5回

牧場で仔馬が生まれると、どきどきしながら思います。ひょっとしてこいつはダービー馬かもしれない、って。皐月賞に続いてやってくるダービーとは、私たちにとってそんなレースなのです。毎年、ダービーへの期待を持たせてくれる馬たちが誕生します。しかし勝てる能力を持っているのにケガをしてしまったり、ここ一番で大雨に泣かされたりと、いろいろあってダービーに手が届かない。そんな年が繰り返されるのです。さて、今年はどうなるのかな、なんて考えていたら、昔のダービーのことを思い出しました。

タケホープが優勝し、千代田牧場の生産馬イチフジイサミ(父オンリーフォアライフ、母メ二ナ)が2着だった1973年のダービー。レース当日はたまたま、馬事公苑で乗馬の試合があり、それを観戦しながら短波放送でレース実況を聞きました。ゴール前、外からタケホープに寄られての惜しい2着。今だったらひょっとして、いや間違いなく1着失格のケースでは、と考えたりもします。だって、嶋田功騎手はその当時で最高額の5,000円の罰金を取られたのですから(翌年から一気に10倍の金額になりました)。まあ、それはさておき、当時うちの場長だった稲葉安夫さんが、タケホープの稲葉幸夫調教師の弟だったというのも、何かの因縁かもしれません。イチフジイサミはその後、1975年に天皇賞(春)に優勝し引退します。天皇賞といえば、その当時は勝ち馬がその次の天皇賞に出走することができませんでした(春に勝てば同年の秋に、秋に勝てば翌年の春に出走できない)。しかも、距離はともに3,200メートル。イチフジイサミは1974年、東京での秋の天皇賞に出走し2着。勝ったのは加賀騎手のカミノテシオなのですが、加賀騎手は進路妨害で4万円の罰金を取られているのです。泣いたのはまた、うちのイチフジイサミでした。彼は東京競馬場に縁が無かったのかもしれません。翌75年には武邦彦騎手のキタノカチドキを負かして京都競馬場での天皇賞に優勝。でも、引退式などないまま、一頭さみしく私と一緒に中山競馬場から北海道へ向かいました。彼と一緒に牧場へ向かう馬運車を待っていたら、やって来たのが「タケホープ号」だったのです。これは日本中央競馬会の粋な計らいか、それともやはり因縁なのか。私が大学3年生のときのことでした。

(あれ、皆さんはご存知ですよね? JRAの馬運車にはダービー優勝馬の名前が付いているって)

イチフジイサミはその後、タケホープ号で運ばれた北海道鵡川の牧場で種牡馬となりました。しかしある日、あて馬をやっていると伝え聞き、どこにいるのか探し出しその日のうちに千代田牧場に連れ戻したのです。2月の寒い日でした。私が自分で出向き、馬運車に乗せ運んできました。

イチフジイサミはうちでのんびりと余生を送ったわけですが、千葉の育成場で彼とタケホープの産駒が調教で併せたりすることもしばしばで、最後まで、タケホープとはご縁があったようですね。

中学一年のときのダービーもよく覚えています。1969年、千代田牧場の生産馬ギャロップ(父バウンティアス、母タンヤ)が、皐月賞でワイルドモアの2着でフィニッシュ。ダービーへの期待も当然のこと膨らみました。そこで鞍上強化、野平祐二騎手を背にしたせいもあってか、ダービーでは堂々の2番人気。その上、シンザンが優勝した時と同じ10番枠での出走です。いやあ、これは胸もどきどき。さらにその日は雨の馬場。ギャロップは雨が大得意だったのです。しかしもう1頭、雨大好き、しかも“雨の鬼”と呼ばれていた馬がいました。それは、タケホープでイチフジイサミを負かした騎手、嶋田功騎乗のタカツバキでした。しかも断然の一番人気。「ああ、これにはかなわないかも」と思っていたら、スタート直後、そのタカツバキが落馬してしまったのです。嶋田騎手は馬場にしゃがみ込み呆然とした様子。子どもごころに「あ、これはうちの馬で勝てるのでは・・・」と思ったのですが・・・。結果は21着でした(当時は28頭立て)。

うーん、うまくいきませんね。勝ったのはダイシンボルガード。ちなみにこの年の(アメリカ)ケンタッキー・ダービー馬はマジェスティックプリンス、ベルモントS勝ち馬コースタルの父、そして英ダービー馬はブレイクニー。こちらはキングカメハメハの母マンファスの母の父です。

私はアメリカのダービーもイギリスのダービーも現地に行って観戦したことはありません。でも、海外のセールに足を運び、ダービー馬たちの仔をたくさん見ています。日本にも各国のダービー馬が種馬として何頭も輸入されました。その馬たちの仔のすべてが日本のレースに適応したか、と言えばそうではないかもしれません。でも、長年の間に、芝向きなのはこの種馬か、ダート適正はこの馬か、短距離だったらいいのか、いや、長いところを狙うのならこちらの種馬かも、と試行錯誤を繰り返しながら日本の馬たちは強くなってきたのです。

いつごろから日本のレースが変わり、馬たちも世界レベルの力をつけるようになったのでしょうか。それは1984年、天皇賞(秋)が2000メートルになり、ミスターシービーが優勝した、その頃ではないかと思います。距離適正という考えが当たり前になってきた時期。そしてサンデーサイレンスの存在もあげられます。種馬は当然、大事です。しかし、そのレベルに見合う繁殖牝馬がいなければ、結果は期待できません。繁殖牝馬への認識の変化は、レースのレベルアップに確実に結びついています。

種馬に繁殖牝馬。競馬のレベルアップはそれだけではすまされません。調教技術、育成技術の向上、獣医学の発達、牧場でのケアの充実、すべての技術がともに向上してのあわせ技、どれが抜けても“競馬の仕事”は成立しません。

千代田牧場でも昔から育成に力を入れています。その技術は確実に「縁の下の大きな力」としてレースを支えていると思っています。「普通のことをしていたのでは抜かれる」という気持ちを持つことで、さらに上を目指すことができ、オーナーやファンの方の期待に沿えるのではないかと思っています。

春の週末は競馬日和。レースに向かう馬たちを見ながら、ダービーのこと、育成のこと、いろいろと考え、また思い出してみました。そう言えばまだ幼稚園に通っている頃、馬運車にこっそりと乗り込み“家出”したことも思い出のひとつです。向かった先は中山競馬場。知り合いの厩舎に転がり込んで、一週間ほど過ごしました。幼稚園の坊主が、毎日、朝と午後の乗り運動に乗っていたという、今では考えられない話ですよね。東京競馬場もちろん、親父が迎えに来ました。でも、私は家に帰りたくなくて逃げ回ったのです。その手の話はたくさんありますが、また次の機会に聞いていただきたいと思います。


5月は過ごしやすい季節です。暖かい春の日のレース観戦は楽しい。でも、毎度毎度勝てるわけではありません。「うそー、何で内があかないの」「ああ、出遅れている〜」なんて、身をよじることもしばしば。それでも、毎週毎週、皆さんと幸せを分かち合うために、これからも走り続けます。応援よろしくお願いします。