牧場こぼれ話・2009

2009年9月1日 Best Luck by 飯田正剛  第9回

 刈り取る前の牧草に埋もれ、寝転がって大きな空を見上げてのんびりと一人の時間を楽しむ。そんなゆったりした時間も昔はあったような気がします。今は仕事に追われ、一人の時間も、空の大きさにロマンを感じるなんて時間もありませんが、忙しいのもまた楽しいもの、ですね。昔といえば、先月は育成の話から、千代田牧場の歴史に少々触れました。今回は、私自身のことを少し書いてみたいと思います。

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 昭和35年父に抱かれてヒシツヨシと
 鞍上は小野次郎騎手のおじ

 幼稚園のころ競馬場に入厩する馬運車に乗り込み、一週間も中山競馬場の厩舎に隠れて親を困らせた話は、以前、このコラムにも書きましたが、私は毎日、ダービー馬アサデンコウの父シーフリューがいた両国種馬場の脇を通り、中村勝五郎さんの扶桑牧場の放牧地を走る馬たちを眺めながら、幼稚園に通っていました。牧柵に手が届く距離に幼稚園があったのです。そして小学校は三里塚小学校。毎朝、御料牧場での追い運動を眺めながら通学していました。時には放馬した馬が校庭に入り込むという今では新聞沙汰になりそうなことさえありました。勉強をというより、別の牧場の馬たちを眺めに学校へ行っていたのかもしれません。写生大会になると、牧場で写生する許可を、私が先生の代わりに牧場に掛け合いました。私が描いたのは、種牡馬、オーブリオン(父はファロスの仔ファストネット)や栗毛のマイナーズランプでした。日本の競馬サークルでこの2頭の名前を知っている人はおそらく、もう殆どいらっしゃらないのではないかと思います。

当時、種付けには歩いて行きました。自家用馬運車などなかった時代です。繁殖牝馬を引いて当場生産馬イチフジイサミ(天皇賞、ダービー2着)の父オンリーフォアライフ、伊ダービー馬セダン(ともに軽種馬協会種馬場)、そしてパーソロンなどを付けにシンボリ牧場まで通いました。学校の帰り道、うちの繁殖に出会うとそのまま種付けについて行き、家に帰るのは夜遅く。種付けの光景は日常の風景といった、そんな子供時代でした。極めつけは小学校3年生の春休み、ラヴァンダンを種付けに北海道の柏台牧場まで行く繁殖馬と一緒に、貨車に乗り込んで行ってしまったことでしょうか?一週間の楽しい旅でした。北海道まで迎えに来てくれた父には大変迷惑をかけましたが、忘れられない思い出です。北海道に牧場を開設したのはその翌年でした。

 
昭和37年千葉牧場で。右は父の初の持ち込み馬ストロベリー(牝)の当歳時。
旧4歳時の安田記念ではパナソニック、ブルタカチホの3着だった。

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 中学に入ると“馬人生”はさらに加速していきました。土曜日は必ず早弁をして、一目散に牧場に帰り、調教の手伝いをしていました。勉強は二の次だったみたいですね、どうも。そして小学校の頃からランドセルに入れていたのは、白井新平さんが編集していた競馬情報誌の「ケイシュウ」です。今みたいに競馬の情報があふれている時代ではなかったので、ケイシュウが家に届くのがすごく楽しみでした。

 
 『優駿』1971年5月号。みんなで言いたい放題

そんな中、名物編集長だった宇佐美さんが編集長だった頃の『優駿』に載ったことがあります。中学2年の時のことでした。題して“ぼくたち10代 競馬はすごくおもしろい”。それが何と、由々しき問題として一般紙に取り上げられてしまったのです。記事のタイトルは「競馬会10代を調教!!」。スペースもかなり割かれていたと思います。びっくりしましたね。スピードシンボリがどうしたとか、アカネテンリュウはああだったとか、ハイぺリオンについてはこう思うだとか、ともかく生意気なことを好き放題言っていましたが、まさかそんなことになるとは思いもよりませんでした。

 3歳で初めて馬に乗ったころから、私は馬の仕事をしていくことしか考えていませんでした。まったく自然な流れなのです。学校の友達からは「夢のないやつだな」と度々言われました。よく覚えています。でも、私は馬以外の仕事に関わるつもりはまったくありませんでした。夢のないやつと言われても「そうかなあ?」と思っただけです。昨年まで道警の本部長をしていた仲良しの同級生と、畑道にチャリンコを止め、よく話しをしたものです。彼も農家の出身でしたので度々、「俺は馬の仕事をやるから、お前が農水省に入ってくれるとありがたい」と言っていました。今でも、彼が農水省に入ってくれていたら良かったのに、と思うこともしばしばです。

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クレイボーンファームの獣医師と推定55kgの飯田正剛
注)本人です!

 大学3年生の時に、1ヶ月でしたがケンタッキーの名門牧場であるクレイボーンファームに研修に行きました。その年、1977年はシアトルスルーが三冠を取った年です。エリモシブレーの姉であるファンファルーチェが、真昼の牧場から盗まれるという事件も起きました。今では馬のほか、いろいろな動物にマイクロチップが埋め込まれており、例えば、厳重に登録されている盲導犬などは迷子になっても追跡できるようになっています。もしその当時からマイクロチップが導入されていれば、1983年に誘拐されたシャーガーも無事に保護されたかもしれません。余談になりますが、本当に彼はどこに行ってしまったのでしょうね。銃弾を浴びた馬の頭蓋骨が見つかって、シャーガーではないかとDNA検査が行われましたが、結局彼はいまだに行方不明です。最近では、ドバイミレニアムの半弟、ドバイエクセレンスの行方不明事件もありました。種馬としてイギリスからオーストラリアに向かったはずなのですが、実際に到着した馬はまったくの別馬。その後、ウクライナで発見されたということですが、飛行機を乗り違えたということでしょうか。

 さあ、クレイボーン滞在に話を戻しましょう。いろいろと歴史的な事件があった時期に行き合わせたわけですが、私にとっての幸運な事はなんといっても世界的名種牡馬ヌレイエフとの出会い。私は当歳の彼に出くわしたのです。馬房のなかのヌレイエフの写真、すごいでしょ!思わず自慢したくなる一枚です。競馬好きのあなたでしたら、きっとうらやましがってくれることと思いますが、どうですか? それから名馬ニジンスキーとのツーショット写真。実はグルームの昼休みの時間に放牧地でこっそり撮ったもの…もう時効ですよね。

   
当歳時のヌレイエフ  ニジンスキーと極秘ツーショット

 このときキーランドジュライセールに来ていた吉田善哉さんから、「どうだ、カナダにノーザンダンサーを一緒に見に行かないか?」と誘われたのですが、行きませんでした。今から思うと残念でなりません(前述の盗まれたファンファルーチェの父はノーザンダンサーです)。

 その後、クレイボーンファームから今度はイギリスのニューマーケットに行きました。1週間の滞在でしたが、ジョン・ウインター厩舎で調教にも乗せてもらいました。ウォーレンヒルの調教場での攻馬は最高の気分でした。一生の思い出です。

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 さて、今回は私の若い頃の写真も一緒にご紹介してきました。乗馬では国体のときなど、ファンの女の子がたくさん応援に来てくれました。そうなんです、昔は楽しいこともいっぱいありました・・・。

 

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 じつはセレクトセールの後、少し体調を崩してしまいました。疲れが溜まっていたのですね、きっと。大嫌いな(?)アルコールの変わりに、胃カメラを飲み、検査のため札幌まで。おかげで2キロ痩せました。その週は競馬場に行くことも出来ず自宅でグリーンチャンネル観戦。そんなときに限って生産馬が活躍するんです!フローライゼが新馬勝、タイセイワイルドも2戦目で快勝と、2歳戦で2勝を挙げました。調教師たちはパドックで「社長も人間だったんだ」とうわさしていたそうです。でも、すぐに取り戻しました。すっきりスマートなイケメンより、元気でタフで、ゴルフ場ならぬ牧場焼けの逞しい『ちょい悪おやじ』のほうが今は似合っているのかもしれませんね。そんな私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。