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2010 #03


〜藤澤調教師と千代田牧場・・・その2〜

 藤澤さんは馬バカ小学生だった私を、自身が高校生の頃から知っていたわけですが、私もかなり昔から藤澤さんのことは知っていました。

クレイボーンFの獣医と私(右)。痩せてますよね〜。

1977年、アメリカのクレイボーン牧場に獣医として研修に行きました。その帰り、ついでにヨーロッパを廻ろうと思い、まずはフランス、そしてイギリスへと立ち寄りました。ニューマーケットには1週間の滞在。写真やテレビでよく紹介される草原の調教コース、ウォーレンヒルでどうしても乗ってみたかったから、藤澤さんが滞在していると聞いていたジョン・ウインター厩舎を訪ねたのです。しかし、「フジサワなら春先に日本へ帰ったよ」とのこと。それでも調教には快く乗せてくれました。あの当時から名前だけは知っていた藤澤さんと、ニューマーケットで顔を合わせていれば、今、もっともっと仲良しだったかもしれない、と思うと少々残念ですが、案外「生意気な若造だな、こいつ」なんて嫌われていたかもしれないので、やっぱりすれ違っていてよかったかもしれません。

 海外経験も豊富な藤澤調教師。外国産馬の活躍も目立つので、海外志向(?)と思われがちですが、もちろん日本の牧場にも足を運んでいるのです。調教師の免許を取った時も、日高に勇んでやってきました。そしてとある大手の牧場を訪ねたのですが、「君は誰って聞かれたから、調教師免許をいただいたばかりの藤澤ですって言ったら、そんな若造に見せる馬はいないって門前払いをくった。頭にきたから、よーし、見ていろよ、絶対にお前のところの馬なんか預かってやらねえぞ、って決めたんだ、ワハハ。でもなあ、リーディング取ったらさ、いきなり愛想良くなりやがって・・・(笑)」

 さあて今回は、これまで預かってもらった千代田の馬たちと藤澤調教師の話を、少しだけですがお話したいと思います。

*     *     *     *     *

 藤澤厩舎に入厩した父名義のデへアの子が1999年9月5日、札幌競馬場でデビュー戦を迎えました。名前はウイニングリーダー。岡部幸雄騎手を背に人気になっていました。しかし、向こう正面で故障してしまったのです。馬は馬運車で診療所に運ばれました。藤澤調教師はその傍らに寄り添い、頭絡をはずし、それを自ら洗っていました。私もすぐに駆けつけ、自分の目で馬の様子を見た時、「ああ、これはもうだめだな」と覚悟したのです。でも藤澤調教師は、
「専務、大丈夫、手術して乗馬にするから、なんとかするから」
と言って、獣医に手術をするように頼んでくれたのです。
「函館競馬場に運んで手術をして、厩舎でじっくりリハビリすればなんとかなるよ、大丈夫だから」

 滞在先である函館競馬場で手術をするということは、獣医たちを始め、かなりの人たちが馬に付き添うために札幌から移動しなければならず、それだけでも大変なことなのです。でも、何度も、何度も、獣医たちに手術してくれと頼む藤澤さん。オーナーの私があきらめているのに、藤澤調教師はあきらめないのです。
 その時、彼はリーディング2位でした。1位に手が届くところにいたのです。1位になりたかったら、休むだけの馬など追い出して、レースに使える馬と入れ替えたい、そう思うのが当然です。でも、何度も手術してくれって頼んでいるのです。私は涙が出ました。馬のことを思ってもですが、藤澤調教師の馬に対する気持ちに涙が出たのです。藤澤調教師とはそういう人間なのです。

 
やはり父の所有馬でスリルショーの子、サイレントキラーも藤澤厩舎に世話になった一頭です。1994年11月に東京でデビュー、1999年10月の東京開催までに34戦4勝という成績をあげました。ある日、中山競馬場で勝った時のことです。母も父と競馬場に出かけており、勝利した馬との記念撮影のためウイニングサークルへ駆けつけました。母はとてもうれしかったのでしょう。大きな声で、
「この馬、藤澤厩舎に入っていなければ競走馬にならなかったわよ。しかも勝てなかったわ。さすが藤澤さんよね。ね、あなたもそう思うでしょ!?」
とそばにいた新聞記者に話しかけました。他の調教師もたくさんいるのに、母は豪快というか、何も気にしないというか、何というか・・・。当の藤澤調教師は何も言わず、にこにこと笑っていたそうです。でも、確かにこの馬、生まれつき膝と膝をぶつけながら歩くような、そんな脚を持った馬でしたから、藤澤調教師の苦労も大変なものだったのではないでしょうか。そんな馬を勝たせてくれた藤澤さんがレース後、
「おい専務、賞品は俺が二人の乗るタクシーまで運んでやったからな」
と電話をしてきたのです。私は競馬場には行きませんでしたので、藤澤さんが私の代わりをしてくれました。優しい人なのです。しかも、それを電話で言うところがいかにもあの人らしい、と思わずうれしくなりました。

 そして、ピースオブワールド、実は藤澤厩舎に入る予定の馬でした。当歳のころ、藤澤調教師が牧場にピースを見に来たのです。その時一度きりでしたが、藤澤さんは、この馬は自分が預かる、と決めていたようです。でも、実際には栗東の坂口正大厩舎に入厩し、2歳牝馬チャンピオンのタイトルを手にしました。そこにはこんな経緯があったのです。

 息子に名前を付けた時のことです。私の名前の一字を取って、坂口調教師と同じく正大と付けようと思ったのですが、同じ字が3代続くのは良くない、ということであきらめ貴大としました。ある日、そのことを栗東で坂口調教師にお話したところ、先生がびっくりされて、「うちの息子と同じ名前です。では、今度ぜひ貴大君に会いに行きましょう」ということになりました。

 そして、その半年後、一通の履歴書が届いたのです。中身は牧場研修をさせて欲しいとの内容。差出人の名前は坂口貴大、携帯番号にかけてみると、やはり坂口調教師のご子息でした。一年後、大学卒業を控えた彼は静内の牧場で研修をすることになったのです。坂口先生も月に一度は牧場を訪ねてくださるようになり、その時「サンデーサイレンスの牝馬を預かって欲しいのですが」と申し出ました。でも慎重な坂口先生は即答を避け、2回目に牧場にいらした時OKの返事をくれたのです。

 馬は順調に成績を重ねました。それはファンタジーSを勝った後のことです。藤澤調教師から電話があり、
「あれは俺の馬だったはずだ。いいか、馬泥棒は昔から縛り首と決まっているんだ」と言われてしまいました。

 そして、年度代表馬の表彰式でのことです。坂口調教師が
「大変です。ピースオブワールドのプラカードの前に、藤澤調教師が立っています!!」
 藤澤さんらしいいたずらです。あの人でなければできないおふざけですね。さすがAB型、個性的もいいところ。

 
2002年度JRA賞の表彰式にて。このとき藤澤調教師は自身の最多勝利、最多賞金獲得、優秀技術調教師賞と、シンボリクリスエスの年度代表馬&最優秀3歳牡馬で表彰されていました。左の写真は藤澤調教師が自ら撮って下さったもの。だからペリエ騎手が一緒なんです。

 藤澤さん、これからも長くすてきな付き合いができますように、改めてよろしくお願いします。

 さて、次回は私を専務と呼ぶもう一人の調教師、国枝栄さんについてお話したいと思います。 

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